HOFU ROTARY CLUB WEEKLY

 防府ロータリークラブ週報
NO.0707 2007年8月21日

プログラム
会員増強および拡大月間
RCCとの合同夜間例会

点鐘
ソング「それでこそロータリー」
会長挨拶
RCC会長挨拶
クラブニュース
各委員会報告
RCC委員会報告
会員スピーチ
    澁 谷  正君
RCC会員スピーチ
     小 川  清君
点鐘
懇親会

次週例会
◎次週例会 8月28日(火)12時開会
      ご夫人参加研修例会
      ゲストスピーチ
     「幼児教育の原点」
      松崎幼稚園 副園長
     脇  美 恵 子 様

先週の例会
先々週の例会 8月7日(火)
◎出席委員会報告
 会員数60名 出席者49名 出席率81.67%

――― 欠席者―――
 柳君 林君 倉員君 河村君 中原君
 木村君 原(晴)君 喜多村君 井藤君
 杉山君 阿部君

――― 事前メーキャップ―――
 泉君……………………(7/30 防府北RC)

――― 7月31日修正出席率―――83.33%
 澤田(健)君…(8/4 IAC地区大会)

◎スマイルボックスご報告
         (親睦活動委員会)
 
・澤田健規君
 インターアクトの皆さん、ようこそ。
 地区大会の感動を行動へ!期待していま す!

・鈴木宏明君
 防府天満宮ご誕辰祭、大花火大会はお楽
 しみいただけたでしょうか。
 又「万灯の夕べ」ではJCメンバーと共に
 高川学園高校、誠英高校、防府商業高校
 のインターアクトの先生並びに生徒の皆
 さんにはご奉仕大変お世話になりまし  た。
 有難うございました。

・田中信治君
 また、お世話になります。


クラブニュース
◎ガバナー事務所より2007〜08年度地区大 会『友愛の広場』の開催に伴う出展募集
 の案内が参りました。
  ・内容
   《水保全及び環境》に関する各クラ    ブのプロジェクト紹介の場として    出展を募集
  ・期限
   2007/8/31迄にガバナー事務所に申請

◎【財団法人ロータリー米山記念奨学会:  財団設立40周年記念オリジナル切手シ  ート】
  ・30シート注文、支払いをしました。
  ・米山記念奨学会事務局より8月3日    15:20で  完売の報告あり。
◎《7月度理事会報告》
 【審議事項】
  1. 8月度例会プログラムに関する件
  2. RCCとの合同夜間例会に
     関する件
  3. 諮問委員会に関する件
  4. 夫人同伴例会に関する件
  5. その他
 【8月度例会プログラム】
  第1 例会 8 月7 日(火)
インターアクト地区大会報告
  第2 例会 8 月14日(火)休会 
  第3 例会 8 月21日(火)
RCCとの合同夜間例会
  第4 例会 8 月28日(火)
       ゲストスピーチ
    松崎幼稚園
    副園長 脇 美恵子様

他クラブニュース
◎例会変更通知
  防府北RC 8月27日(月)
  防府南RCとの合同夜間例会に変更

寄稿文
     終戦記念日に憶う
 
           近 藤 宏 一

 私は車塚町(現・大黒屋)で生まれた。生家の向かい側が防府警察署、南隣が電気局(中国電力)、その南隣にあった防府町役場は5歳の時、市制に伴い防府市役所になった。
 市役所が現・寿町に移転した後、残った市議会棟には一時期、商工会議所が事務局とし入居、ロータリークラブや青年会議所の事務局も創立時には一時期同居した。
 当時は市役所前の車塚妙見神社の下手には郵便局・電話局・中央病院。隣接する藤本町にも農協関連施設や三哲文庫(図書館)、宝酒造(現・SATY)などもあり、防高・防商・三女に通学する生徒の交通量も多く、車塚は昼間人口の多い賑やかな官公庁街で周辺商店街も賑わっていた。
 私が生まれた昭和6年は長じて知ったことだが満州事変が起きた年であり、松崎幼稚園から松崎小に入学した昭和12年の七夕には支那事変(日中戦争)が勃発している。その間、五一五事件や二二六事件、あの松岡洋佑外相の国際連盟脱退等もあり日本がだんだんと戦争に突き進んで行くのである。 そして小学5年生の12月には遂に大東亜戦争(太平洋戦争)に突入。松崎小講堂で開
戦の詔勅を聞き武者震いをしたことを覚えている。
 そんな中、昭和18年に防中(防高)に入学した。
 一年生と三年生、二年生と四年生が一日交替で飛行場(北基地)建設作業に動員され土方作業をした。とにかく腹が減って仕方がなかった。飛行場は昭和19年4月に完成し、鹿屋・沖縄への特攻隊中継基地となったが、わずか一年足らずで終戦になった。
 戦争中4機編成のグラマンが鐘紡や飛行場にロケット弾を打ち込むのも見たし、絹のマフラーを首に巻いた特攻隊の南下も見た。
 当時の日本は食料不足で飛行場周辺の空き地で大豆や小豆の栽培もしたし、なんと防府高校の構内でケシを栽培し、竹ベラで樹液の採取作業もした。モルヒネの原料だと教えられた。
 勝坂トンネルの向側左に不時着用の小飛行場の急造作業にも動員された。(戦後白バイ訓練に利用)
 終戦直前の昭和20年春からは陸−1051工場(旧・宝酒造・現SATY)に学徒動員され航空機用燃料アルコール製造に従事。空襲警報が発令されると貞永屋敷(防高体育館)の蛸壺(防空壕)に退避。
 当時は、防高と防商のグラウンドは耕され、サツマイモの栽培に、その後陸軍の木材置場に変身、更に終戦時にはグァム島より飛来し豊後水道を北上、日本を爆撃するB29爆撃機を迎え撃つ高射砲部隊が展開していた。1万m以上を飛ぶB29に対し日本の高射砲は8千mしか 届かず、悔しい思いをした。
 日本は絶対に勝つと教えられるなか昭和20年8月15日昭和天皇の終戦の詔勅を動員先で聞いた。
時に14歳、中学3年生だった。
 8月末にはマッカーサーが厚木飛行場にパイプをくわえて降り立ち、日本を骨抜きにする占領政策が打出され、朝鮮戦争が始まる昭和25年までの戦後混乱第一期に入るが、昭和21年の総選挙は評価するが、新聞や教科書の検閲、押付け憲法の制定や教育制度改革に関わる民主化と称する政策への弊害が、戦後62年経った現在起きているように思う。
 総ての混乱の責任は、日本自体の軍国主義化に起因するが、昨今起きている諸々の悪社会現象は、戦後アメリカ主導の日本占領政策による日本人の骨抜き政策にあるという現実を再認識し対処しなければならないと思う昨今である。




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